大学生協のツアーですが、内容は,往復の航空券だけです。164,000円。
1975.3.7〜4.6
高校、大学が同じ友人と二人でヨーロッパ旅行をする事にした。
エーゲ海に沈む夕日が見たかったのでギリシャに行きたかった。
安いツアーを捜したら、往復164,000円のツアーがあった。
ただし、アテネで一度解散し、ロンドンで集合というもの。業界では「足売り」と呼ぶようだ。
途中は全くの自由行動。それで、ツアーの名前が「ヨーロッパ自由交歓旅行」。
21日間のユーレールパスを買った。
このパスがあると、ギリシャ、ユーゴ、英国以外は一等車両にフリーで乗れる。
宿は全て現地で手配する事にした。
旅行のスケジュールは、訪問する都市、滞在日数、移動の列車、を決め、余裕日を数日作った。
移動は全て列車のため、トーマスクックの時刻表が手放せなくなった。
(上の写真は、お世話になったトーマスクック時刻表の表紙です。当時使ったものです。)
アテネへ
集合は羽田東急ホテルだったが、何人のツアーだったか記憶にない。
年配の男性がいたことは記憶にある。
アリタリア航空の南回りだったので、香港、バンコク、カラチ、クウェート?経由のアテネ着である。
カラチはとても暑かったことを記憶している。
アテネのホテルは、オモニア広場に近いドリアンイン DORIAN INNでした。
アテネ、そして夜行列車でベオグラードへ
朝、ホテルにチェックインしました。
時差のせいか、友人の体調がすぐれないため、彼をホテルに残して、ひとりで市内をふらつき、午後は一緒にリカベトスの丘にケーブルカーで登りました。
翌日は、ツアー全員で地下鉄を利用してピレウス(アテネの外港)まで行きました。
団体行動は、それが最初で最後でした。
パルテノン神殿に登ったら、我々が乗っていた飛行機のクルー(日本人)に会いました。
スニオン岬は、エーゲ海を見たかったので行きましたが、残念ながら天気があまりよくなかったため、七色に変わる海は見るとこが出来ませんでした。
アテネ到着から3日後の朝、ベオグラードに向かうためスーツケースを押しながら歩いてアテネ国際駅まで行きました。
時間待ちのため駅前のカフェで飲んだトルココーヒーは最高においしかった。
なお、アテネからベオグラード行きの列車の予約は、乗車するアテネ国際駅では出来ず、事前にOECの事務所(Venizelou通り、Academy of Scienceの前)で購入した。IDカード(国際学生身分証明書)は通用しなかった。2等で863ドラクマ(1ドラクマ=約10円)でした。
乗車した列車は夜行列車です。(アテネ発 10:00 → ベオグラード着 7:06 (アクロポリス急行、AKROPOLIS EXPRESS))
夕食は食堂車で食べましたが、コース料理を頼んだら、最後は甘いケーキが出てきた。
食堂車でコース料理を食べたのは、これが最初で最後です。
(男の)二人旅は何とかなる。
地図を持っていても迷ってしまった。英語も通用しない。
ベオグラードにて
駅を降りて早速駅の中のインフォーメーションでホテルを予約。
片言の英語で何とかできるもの。
必要な事項を言えば捜してくれる。
ベオグラードのホテルは、駅前のCクラスのホテル、ツイン朝食付き3,400円、バスは無料(バス室の鍵を貸してくれた) 。
まずは駅近くのホテルにチェックインして身軽になって街に出る。
姉の勤務先(総合商社)の営業所が市内にあると聞いていたので早速訪ねる。
市内の地図を渡されて、カレメグダン公園ぐらいしか見るところはないと言われた。
早速公園に行き公園内にある武器(軍事・戦争)博物館に入って見学した。
昔から最近の戦争までに使用したいろいろな武器が陳列されていたように記憶している。
建物の外には最近の戦争で使用された戦車や大砲が無造作に展示してあった。
のどが乾いたので街中の売店で飲み物を買う事にした。
売っているのはレモネードであった。
ただし、これを現地ではネモナードと発音し、とても甘い飲み物であった。
ベオグラードのお土産
ホテルに帰ろうとしたら、道がわからなくなった。通りを歩く人達に声をかけても、英語は全く通じず、仕方なく近くにあったデパートに入り、ようやく我々の所在地を地図上で確認できた。
翌朝は一番で駅の近くの中央郵便局へ行き、自宅宛のはがきを投函した。
自分のお土産用に、その当時の地元でもほんの一部の年配の人しか履いていないサンダルのような薄い皮製の靴を買った。
形はオランダの木靴のようで、底も含めて一枚皮で作られていて、しかもつま先がとがって反り返っているというものであった。
甲の部分は別の薄い紐状の皮で編んであった。
つい最近まで家にあったが、引越しの整理中、皮の一部が切れていたので、つい処分してしまった。今にして思えば残念な事をした。
再び夜行列車でベネチアへ
次の訪問地ベネチアへの移動も夜行列車である(夜出発)。
コストと時間の節約になるのでこの移動手段を使った。
国境越えは夜中でも起こされてパスポートチェックだ。
ベネチア着も朝となる。
オグラードBelgrade 20:45 → ベネチアVenezia 11:50 (DIRECT ORIENT EXPRESS)
ベネチアに到着後、すぐに水上バスでサンマルコ広場に向かった。
ホテルを捜すためである。
ところが運悪く、長い昼休みの時間にぶつかり観光案内所は閉まっていた。
仕方なく広場にあるカフェでコーヒーを飲みながら開くのを待つ事にした。
観光案内所で紹介されたホテルは、広場から5分とかからないところだった。
AL.GAMBERO Calle dei Fabbri ツイン素泊まり、5,200リラ(1リラ=約0,45円)
荷物をホテルに預けて再び街に出た。
店頭でサンドイッチの具を選ぶ店で昼食を買って歩きながら食べたが、サラミをはさんだ硬いパンのおかげで口の中を切ってしまった。
美術館と遺跡の国・・イタリア
最初のフィレンツェ
ベネチア発11:28 →14:10 フィレンツェ着 (Rapid) 800リラ
フィレンツェに着いたら、なんとアルピニストの大会のためホテルがない。
雨にも降られ散々。
仕方なくYHに泊まる事にしたが、そこまで行くのに苦労しました。
バスを降りてからスーツケースを引きずって延々と歩かされました。
しかも、YHの入り口から建物までも結構歩いた記憶がある。
アルピニストの大会を避けるために、翌日はローマに行く事にしました。
フィエゾレは良かった!
フィレンツェに戻る
ローマ発10:05 →13:29 フィレンツェ着 (EXPRESS)
インフォメーションで紹介されたのは駅から数分のペンションでした。名前は「Tiffany 」家族でやっていました。
ツイン朝食付き、5,500リラ。
そこには、日本人の若い女性二人組みが泊まっていました。
なんとなく気があって、翌日は一緒に美術館を見て回りました。
驚いた事に、彼女らはフィレンツェとフローレンスは別の都市と思っていました。
次の日は、フィレンツェ郊外、約4Km北の丘の上にあるフィエゾレ(Fiesole)にバス(約30分)で行きました。
古代ローマの劇場があり、劇場の上から見た風景はとてものんびりとしていて良かった。
フィレンツェの駅の近くの酒屋さんでキャンティ(ワイン)のハーフボトルを買いました。
このボトルは途中で空になりましたが、記念に日本まで持ち帰りました。
つい最近まで家にありましたが、引越しの際、処分しました。
ローマ
フィレンツェ発12:34 →15:45 ローマ着 (TEE VESUVIO) 予約料600リラ、違反料?200リラ
ホテルはテルミニ駅の近くにしました。
夕食は近くのレストランに行きます。
このころになると旅にも慣れてきて、二人でワインをハーフ(もちろんデキャンタ)頼むようになりました。
トレビの泉、スペイン広場、コロッセオ、フォロロマーノ、バチカン市国、サンピエトロ寺院、「天地創造」で有名なシスティーナ礼拝堂、へ行きました。
バスの切符が何枚か残っているので、結構バスも使ったようです。
ナボナ広場にも行きました。家族へのお土産にカメオを買うため、広場に面したカメオ店「APA」に行きました。
日本人の店員がいました。
【フィレンツェからバルセロナへ】
フィレンツェ発 12:25 →13:46 ピサ着 乗車したまま14:01 → 5:45 Port Bou着(フランス、スペイン国境)ここで乗り換え、税関通過、発車7:00 →9:41 バルセロナ着(EXPRESS)
イタリアからフランスへは国境を通過するときは、EC内のため税関はありませんでした。
スペインへ!
バルセロナ
ホテルは駅のツーリストインフォメーションで紹介してもらう。ツイン,シャワー付き、200ペセタ(1ペセタ=約5円)、駅から10分程度。
今回の旅行のメインは美術館、博物館巡りだったので、モンジュイックの丘にある軍事博物館にロープウェイで登った。
美術館はピカソ美術館に入った。
スペインでは、闘牛とフラメンコを観たいと思っていた。
バルセロナでは歩いていける闘牛場があったので当日券を購入して闘牛を見た。 (Plaza de Toros Monumental Barcelona)
カテドラルに行くと大勢の人が集まっていて、なにやらお祭りのようであった。
復活祭のちょうど一週間前だったのです。
女の子を連れた女性と一緒に写真を撮らせてもらいました。
住所を教えてもらったので帰国後写真を送りました。
夕食のため、にぎわっているレストランに入る。
カウンター形式だったと思う。メニューを見ても英語ではなく、どうも英語はほとんど通じない。
仕方なく隣の人の注文したものを頼んだら、オムレテ、と発音していた。そう、オムレツでした。
フラメンコに感動!!
マドリッド
バルセロナ発22:30 → 8:25 マドリッド着 (RAPID)
今回の訪問地の中で一番物価が安い国だったので一泊ぐらいは贅沢しようという事になり、インフォメーションで三ツ星ホテルを紹介してもらいました。
ツイン、バス・トイレ・朝食付き、635ペセタ
部屋は次の間付き、HOTEL INGLES(ECHEGARAY8)
紹介手数料は46ペセタ
ホテルまで案内所の人がタクシーで連れて行ってくれた(タクシー代当方持ち)、ソル広場まで5分とかからず。
次の間がついた部屋で、さすがにゆったりとした気分になりました。
世界三大美術館のひとつ【プラド美術館】に行きました。
現在、ソフィア王妃芸術センターにあるピカソの『ゲルニカ』は、当時はありませんでした。
当時はニューヨーク近代美術館が所有していたようですね。
プラドでは、ゴヤの「裸のヤハ」「着衣のマハ」、ベラスケスの「ラス・メニーナス(女官たち)」ほか美術の教科書などで見た有名な絵がたくさんありました。
教科書には載ってなかったけど、ゴヤの「わが子を喰らうサトゥルヌス」には物凄さを感じました。
本場のフラメンコが見たかったので、歩いていける店をホテルで予約してもらいました。 コーラ一杯付きで、一人350ペセタでした。
お店の名前は、VILLA ROSA(現在名:Tablao Flamenco Villa Rosa)。
店にはまだ客がいなかったせいか、舞台の最前列の席に座らせてもらいました。
女性のドレスが舞い上げるほこりをモロに受けるほど近く、踊る女性の汗が飛んでくる感じがするほど臨場感を感じとても興奮した時間でした。
店の中の舞台から遠い場所は、一段高くなっており、日本人の団体が来ていましたが、途中で気がつくといませんでした。
踊り手たちが本気?で踊り始め、観客と一体になってくるのは団体が帰った後でした。
11時からのショーは午前3時に終わりを告げました。
それから深夜の街を歩いてホテルに帰りました。
翌日眠い目をさすりながら広場(Plaza de Santa Ana サンタアナ広場)に行くと小学生ぐらいの女の子が二人でローラースケートをしていました。
一緒に写真を撮らせてもらいました。
スペインの状況
我々が旅行した年は、その年の11月にそれまで独裁政治を行っていたフランコ総統が死んだ年であった。つまり独裁政治の末期である。
独裁政治と言ってもすでに米国との和解が成立していた。
港で見たアメリカのマークがついたミサイルのようなものは、そんな政治状況を反映していたのだろう。
でも港の近くの建物の玄関には機関銃を持った兵士がいた。
マドリッドでは、ALCALA通りの国立銀行で両替した。手数料は、0.2%だった。
ルーブルに入れなかったパリ、そしてゴッホと飾り窓のアムスへ
パリ
マドリッド発19:00 → Irun(スペインの国境の街) 1:54 /1:55 → Hendaye(フランス領の街) 2:00 乗り換え、税関3:10 → 9:35 パリ着 (PUERTA.DEL.SOL)
パリのホテルはLord駅近くの星なしホテル、ツイン、朝食付き、46フラン(1フラン=約60円)
ホテルの近くの路上には夜になるとまだコートが手放せない3月なのに薄着の女性が立っています。
ちょっと興味はありますが、触らぬ神にタタリなしの心境でその前を通り過ぎました。
美術館の代名詞みたいなルーブル美術館は、あいにくストライキのため中に入れませんでした。
エッフェル塔、凱旋門、ノートルダム寺院は行きました。ルクサンブール公園にも行きました。
天気も悪かったので、日本では見ることのできないノーカット版の「エマニュエル婦人」を見ました。6フランでした。
アムステルダム
パリParis 7:23 → アムステルダムAmsterdam 12:28 (TEE ILE DE FRANCE)
アムステルダムは、ステゥーデントホテル(名称:H88)に泊まる。
一人5ギルダ(1ギルダ=約110円)、シャワーは浴び放題、もちろんゴロ寝、広い板の間にマットレスを敷き、シーツに入って(?)毛布をかけて寝る。
復活祭のためホテルはどこも満員、駅の近くには宿を探す若者が大勢いた。
なんとか探した宿が前記のステゥーデントホテルだった。最低限の身の回り品以外は全部スーツケースにしまい、駅の手荷物に預けた。
二日間そこに泊まったので朝晩は駅に行ってスーツケースの中身の入れ替えをした。
左の写真は、東京駅のモデルと言われているが、真相は定かではない「アムステルダム駅」である。
アムステルダムの中心街は運河だらけであり、駅が運河に囲まれているようなものです。
夜「飾り窓」に歩いて行った。
途中、中国人に自国人と間違われて声をかけられた。
翌日昼間同じ場所に行ったら、少しカラフルな建物が並んでいるだけだった。
ゴッホ美術館では、自画像やひまわり、そして糸杉の絵をたくさん観る事が出来た。
アムステルダム国立美術館ではレンブラントの「夜景」を観る事が出来た。
深夜に海峡を渡る
フェリーでドーバー海峡を渡る
アムステルダムからロンドンまでは、ホークバンホランドまで電車で行き、そこからドーバー海峡を超えて英国のハービッチへはフェリーに乗り、そして再び列車に乗り換え、ロンドン入りした。
ホークバンホランドからロンドンまで学割で8,6ポンドだった。ホークバンホランドの駅で直接購入できた。
アムステルダム発 21:10 → 22:27ホークバンホランド着、ホークバンホランド発(フェリー)23:15 → 6:45ハービッチ着 、ハービッチからロンドンまでの時刻は記録(メモ)が残ってなかった。
フェリー内のRest Chairはフェリーの中のInformationみたいな所に申し込むと無料で座席を指定してくれた。(数に限りあり)
ロンドン、天候に恵まれず
ロンドンの集合場所へ
ロンドンに到着後、そのままツアーの集合場所のホテルに向かった。
そのホテルは料金が高かったので、現地駐在員にもっと安いホテルの紹介を依頼したら、歩いて数分のところにあるホテルを紹介され、そこに泊まる事にした。
STRUTTON PARK HOTEL(45PALACE COURT LONDON W2)地下鉄BAYSWATER or QUEENSWAY, ツイン、シャワー・朝食付き、5.88ポンド((1ポンド=約700円)
ロンドンでボヤに遭遇
ロンドンには3月31日から4月5日まで滞在した。
ただし、長く滞在した割にはたいしたところに行かなかった。
理由は、天候が悪かった事が一番であった。
滞在中まともに晴れた日がなかった。
雨が多く、雪も降った。4月の雪であった。
見学したところは,ロンドン動物園、大英博物館,マダムタッソーの「ろう人形館」、バッキンガム宮殿など。する事がないので「ダンヒル」「バーバリー」靴の「チャーチ」などのブランド店に行き、男二人で買い物をしていた。
一緒に行った友人がブランド好きだったのであるが、私もつられて、自分用にチャーチの靴、バーバリーのアスコットタイ、ダンヒルの札入れなどを買ってしまった。
まだ目が覚めていなかった早朝に部屋の電話が鳴り、びっくりして受話器を上げるとなにやら叫んでいます。焦げ臭い匂いもしてきました。
どうも火事のようです。
みやげ物などをスーツケースに詰め込み、靴を履き、パジャマの上にコートを羽織って、スーツケースを持って階段を駆け下り、ホテルの外に出ました。
宿泊者は皆道路に出てホテルを見ていました。どうもホテルの地下にある厨房でボヤがあったようでした。
煙も収まり、しばらくして何もなかったように部屋に戻りました。
そして、帰国の途に・・・
途中のカラチの空港はとても暑かった。